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すずき、赤ん坊の頃。
抱いているのは、私の父です。掛川生まれの掛川育ちの私なんですが、当時我が家にはカメラが無く、浜北の叔父の家で撮影されたようです。
自宅の庭にて。
家内いわく。「あなたにも、こんな子供の時代があったのね。」って!
それどう云う意味?右の黒い犬は、「クロ」、後ろの白黒が、「ペロ」かわいかった!(…犬がネッ)
幼稚園の入園式の日
うれしくてしかたなかったのを、今でも覚えています。兄はこの年に、一年生で、一緒に
写真をとりました。わが家の前で。赤いポストがかわいいですね。
ちなみに私は掛川市立西郷幼稚園「うめ組」でした。
これは、浜名湖です。
たぶん浜名湖…。下の砂が黒い。右が私、中央は母、左が兄。浮き輪がお揃いですね。母の帽子はお手製。母はなんでも自分で作ってしまうし、懸賞やクジなどは、何故か、やたら当ててしまいます。今まで母が当てたもの・旅行・超大型プラモデル・おすし券・松坂牛肉詰め合わせ・ビデオデッキ・極め付きは50ccのスクーターなどなど。小さな物はその他にもいろいろ当てちゃいますよ。
雪が降りました。
幼稚園の頃です。右が私、抱っこされているのは、弟です。この日の朝は雪で道路が見えないくらいでした。30cmくらい積もったそうです。今でも鮮明に覚えています。朝5時頃、父に起こされて、早朝から雪で遊んでいました。掛川にこんなに多くの雪が降ったのは、この後一度もありません。この写真は夕方です。朝は辺り一面銀世界でした。
我が家のサツマイモ畑です。
左から、兄弟私の3兄弟!写真が感光して、赤茶けているのが、何とも時代を感じさせますねえ。このころから、写真を取る時には、オーバーアクションでないと、気が済まないようですねえ。
左が私。右が弟。
自宅の前ですね。8月の七夕の時です。このあたりでは、7月でなく、8月に七夕をやりました。お化けの真似をしていたそうです。(母が言っています)
小学校です。
木造の校舎でした。もう、ボロボロですねえ。下の一番右が、私です。ぞうの冠なんだと思いますが。小学校では常に前から二番目。背の低い子でしたので・・・。いつも、放課後は居残り勉強で、冬などは空が真っ暗になっても帰らせてもらえなかった事をおもい出します。

修行時代>>
『フォレスト誕生物語』
御食事前の方は食後にお読み下さいネ(^^♪この話は、今までの私の仕事人生を、振り返り書いた、事実に基づくノンフィクションである。最後までお読み頂くと真意が分かっていただけると思うが、とても回りくどい話になってしまうかも?フォレストが誕生するまでを、詳しく話してみようと思い付き、『フォレスト誕生秘話 』を、書き始めた。(最後まで読んでもらえるとホント嬉しいなあ・・・。)
実は測量会社をつくろうか?っとも考えていた。
私は18才で農業高校の開発科を卒業した。小さな頃から、めっぽう学校の勉強が苦手だったが 開発科では、測量の勉強を結構まじめにしていた。驚くほど測量の授業の多い科だった。そこで、私は将来は測量会社にでも就職し、その後測量会社を立上げようか?などと考えていた今、考えてみると、随分生意気な高校生だ。しかしその計画はあっさりと撤回することになる。 高校生の間に、測量会社にアルバイトで夏休み、冬休み、激しく働いてみて分かった。<自分には向いていない>のだ。なぜか?私は基本的に感覚人間。測量は超緻密。そして創造的な仕事はない。もちろん、建設業において、測量の仕事がどれほど重要か?は、十分理解している。が、自分には向かない事がアルバイトのお陰で、とても理解できた。では、今後どのような仕事に就くのか?とても悩んだ。とにかく独立したい。独立できそうな仕事に就こう。っと考えた。そこで思いついたのが造園の仕事だ。私の科は開発科、隣に「造園科」があった。そこの先生に相談した。造園の仕事はどう考えても、感覚が重要!きっと才能があるに 違いない。(思い込みは怖いね)「将来造園会社を作ろうと思うから、求人の出ている会社を紹介してくれ!」 その先生は、小栗先生と云い、すばらしい先生だった。超生意気な生徒に、とても熱心に世話を してくれた。今思えば、感謝の言葉もないが、とても残念ながらすでに、他界されている。
丁稚(でっち)小僧の分際で!
埼玉県川口市の安行と云う、造園の町で修行を積んだ。当時は日本最大の造園の町だ。そう、実は私はもともと造園の職人なのだ。当時、丁稚小僧の私は、月給7万円が手取りだった。住み込みで働いていたから部屋代、電気代、トイレ使用料(よくわからん経費だ)いろいろ引かれると、手もとに残ったのは5〜6万円だけ。でも、結構満足してた。だって、仕事を教えてもらえるんだから。
入社前の面接で、すでに独立志望と云う事を伝えてあったから、給料なんて期待するのは、間違いだからねえ。丁稚っと云う言葉も、もう今では死語だけど、自分の頃が最後だと思うなあ。よく先輩社員に言われててねえ。「デッチの分際で生意気に、軍手して仕事するのか?」って。

別に苦労話をしゃべりたくって、
言ってるわけでは無いのでご了承頂きたい。
もともと造園職人だった男が、なぜ住宅会社をはじめたのか?って事を理解してもらいたくて話しているんだ。興味があったら、少しおつき合いしてほしい。時代はバブル超全盛期!東京の都心から20Kmの所にあった会社だから、もう、仕事は半端じゃ無く忙しかった! 当時の常務のボーナスは、封筒に札束がパンッパンに入っていた。封筒って言っても、A4位の大型の封筒だから、そりゃもう、すごいのなんの。え?私のボーナスはどうだったのかって?え?頂きましたよ。3万円。いや、当然だと思ってたんだよ。だって、独立志望って事は、いつ会社をやめるかわかんない小僧に、仕事の仕方を教えてあげるんだから。ボーナスが出る方が不思議だと思うんだ。ボーナスがあっただけ感謝っというものだ。

1日に200回は怒鳴られる生活
仕事は、造園会社と云っても、庭を作ったりする仕事は少なくてね、公共事業や企業の工場や、倉庫の植栽工事が多かったんだよねえ。自分は普通の家の庭を作りたかったけど。会社にその仕事が少ないんじゃ、しょ?がないかって半分諦めてた。それにしても、仕事はきびしくてね。1日に200回位は先輩に怒鳴られた。コレ本当の話。さすがに、毎日スゴイけんまくで200回も怒鳴られると、うつ病になりそうになり気が狂いそうな日々だった。そんな、先輩職人が大嫌いだった。でも、その時に諦めていたら間違い無く、今の自分は無いと思うんだよねえ。ま、おかげで今では、ちょっとやそっとの事では、諦めない性格になった。・・・感謝感謝だ。ま、それにしも、友達もいない、相談相手もいない。もちろん彼女なんていない。結構・・・さみし?生活だったんだなあ。う〜ん。



犬の糞が飛んでくる!最高だ!
職人時代の私
公園のゴミ掃除の仕事ばかりの毎日。このゴミ掃除は今思うと、とても良い経験だったけどねえ〜当時はなんせまだ、18才。大きな公園でねえ。連休の後は信じられない量のゴミがまさに山のように、捨てられてるんだ。それこそ、花火で遊んだゴミや、赤ちゃんのおむつや、家庭のゴミまで。2トンのトラックに、1日で3台も超山積みになった。

ある公園は犬の散歩で糞だらけ。その公園の草刈りをやると、草刈り機から、自分の顔に 向かって、犬の糞の粉が、すごい勢いで飛んで来るんだ。乾燥してりゃまだいいけどレアーなやつだと・・・。これはさすがに堪えたよ。今でも忘れられないなあ。なんせ今でも時々「ゆめ」にでるんだ。草刈りをしていると、犬の糞が大量に顔に飛んで来る「ゆめ」をね。だから今でも現場で働く事の大変さ、大切さが身にしみている。

現場は雪山
恐ろしい事に、雪山での作業もあった。群馬県のとんでもない山中で、ゴルフ場建設の 現場だ、ここはすごい。バブル絶頂期だったから、ゴルフ場は次々作られた。春のオープンに合わせて、突貫工事が続く。雪が降っている、群馬の山の中は、と〜っても恐い。まず、はんっぱでなく寒い!急斜面 トラックがスリップして、帰る事が出来ない位の所だ。(もちろん舗装なんてまだしてない)作業していて、今、足を滑らせたら、どこまで落ちていくんだろう〜っと思える程の急斜面だ。しかも、足場は最悪の凍った粘土。で、そこに雪が積もっている。そこに無理矢理、植木を植えようってんだから、むちゃくちゃな話。いや?足を滑らせないで、良かった良かった。
山中で凍死するか?!
一度山の中で道に迷った。夕方、宿泊先の民宿に帰る道が分からなくなった。そこは工事中の道ばかりで、雪も路肩に積もっていて、作業を終えての帰り道、真っ暗になった山だ。しかも軽トラで1人、燃料も少なく、当然ガソリンスタンドなんて、あるはずない超山奥。本格的に恐かったねえ。この険しい山を走り廻り、燃料が底をつく迄に民宿への道を発見できるか?それとも、この場で、燃料が残っている状態で、アイドリングで暖房を取り、朝まで耐えるか? 朝まで・・・この少ない燃料が持つのか?当然深夜になれば、マイナス5度以下になるだろう。群馬県はとても寒い、雪も降り出すかもしれない!しかもここは、かなり標高が高い。燃料が切れれば、激寒の山中で、へたすると・・・『凍死』の文字が頭をよぎった。今、自分はどこにいるのか?どちらの方角を向いているのか?どっちにいったらいいのか?すっかりパニックになり、わからなくなっていた。しばらく軽トラの燃料を節約しようと、エンジンを止めて考えていた。15分か?30分か?とにかく寒かった事だけは覚えている。その時!はるか遠くに車の光が見えた、『た、助かった!』180度方向転換!猛ダッシュこの光を見失ったら最後!本気で思った。雪の中でスピードを上げたら、それこそ命が怪しいでもこの光りを見失ったら・・・どっちにしても命が怪しい。とにかく走った。遂に追い付く事はできなかった。でも、かろうじてメインの道路に出る事ができ、なんとか民宿にたどりついた。いや?ホント・・・よかった、よかった。民宿に持ち込んだ缶タンクから、その日中にガソリンを給油しておいた事は、言うまでも無い。
「住み込み」と言うと聞こえがいい。
住み込みと言うと、普通会社の社長の自宅の1室を借りて生活する事だけど。私が住んでいたのは、ほとんど小屋だ。冬になると、部屋の温度が零下に落ちる。部屋の中の水道は、カチンカチンに凍って水が出ない。もちろん湯沸かし機は無い。フロなどある訳が無い。いや?夏熱く、冬寒い最高の環境にすんでたんだよねえ。冬は雪が積もる。道路は雪が40cmも積もっている。毎週だ。この小屋から県道に出るのに路面の雪かきが必要だ!埼玉県は雪国だ!ホントに間違い無い。(私の住んでいた所が特別かもしれないが)よ、よしこれで、出社できるど?!・・・しかし、なんと今度は、車のドアが凍り付いていて開かないのよ。マジで。「そうだ!ドアにお湯をかければいい!」っと、急いで小屋(部屋?)に戻るんだけど。お湯がでない。水すら出ない。結局ドアは開かず、歩いて出社したことがしばしばあったんだ。

当時、一度だけ、相棒の石山(現フォレスト専務の石山)が遊びに来た。その時の会話だ!
石山→「お前、どっかの難民のような生活してるなあ・・・」

鈴木→「・・・う、うん。そうかな?はは、そう言われてみればそうだよな。」

石山→「現代人じゃないな。ははは。なんとか原人か?類人猿か?」

鈴木→「そりゃ言い過ぎだって!なははは」

石山→「そう?だってフロは無いし、トイレは架設汲み取りだし、お湯も出ないし。」

鈴木→「たしか?に!はははは・・・って、おめ〜ぶっとばすぞお!!なははは」ま、こんな感じで、修行時代を過ごしていたんだね。

風間親方のお陰で。風親方と
実は、今迄本当に誰にも話した事は、なかった事なんだけど。(本当の話し)この埼玉県での修行時代には、何度も何度も、何度も何度も、会社をやめて田舎の掛川に帰りたいと思っていた。仕事のハードはもちろんハードだったが、それはそれでけして、嫌ではなかった。丁稚小僧で仕事を教えて頂いていた訳であって、なんの不満もなかった。しかし、何が苦痛か?それは、毎日毎日罵倒される生活だった。

前にも話したが、1日に200回以上も大声で、ある先輩職人から怒鳴られる。これはさすがに堪えた。そんな時にいつも私に目をかけてくれていたのが、風間親方だ。 今の私がいるのは、まさにこの風間さんのお陰だ。私は、風間さんをもう1人の親父っと呼んでいる。生まれも私の父と同じだ。しかし、とても残念な事に、もう1人の親父さんは、すでに他界された。仕事に対しては、非常に厳しい親父さんだったが、仕事終わると、いつも「すずき!おめ〜も一人前に早くなれるように頑張れ!」っと、励ましてくれた。風間親方は、背が低くて細くて。どうみても、造園の職人には見えない人だったが、そのパワーは驚く程だ。さすがに筋金入りの職人だった。大酒飲みで、愛想が良く、他の職人の面倒見が良い。そして仕事は綺麗で早い!そんなスーパー親方で、私が尊敬している私の「もう1人の親父」だ。
帰郷して、いざ独立だ!

地元、掛川に帰って来て、いざ独立だ。私は父と2人で独立をした。(本当の親父)父は、もともと大企業のサラリーマンで営業経験無し。私は職人、営業経験無し。この2人に営業経験がないのは、痛かった。だってねえ、仕事ってどうやってもらってくるの?って、まずそこからだったからねえ。独立当初は、知り合いや、友人、親戚の家の工事をさせてもらえた。しかし問題はその後だ。それでも、夢は限り無く膨らんだなあ。地域に密着した、有名な会社にしたかった。

造園業はすばらしい仕事だ!しかし!
造園業、庭やの仕事は、本当はすばらしい仕事なんだよ。自然が相手の仕事で、しかも芸術的な仕事で、お客様からは大切にして頂けるし、(普通反対なんだけど)なんて言っても設計から、施工まですべて自分の手で、何もなかった土のパレットの上に作り上げる事ができるんだから、自己満足の度合いも大きい。・・・と、思っていた。しかし、独立してみるとそれは、だいぶ違っていた。確かに自分でゼロから作る事ができる仕事だ・・・仕事があれば。でも私には仕事がなかった。世の中はバブルの最後で爆発寸前。どこの会社も、仕事がこなし切れない程だった。でもねえ、我が社(と云っても、父と2人の会社だが)には、肝心の仕事がなかったんだよねえ「手に職があれば、飯の喰いっぱぐれはない!」っと云う言葉をずっと信じていた。・・・まちがっていたね。そんな、時代はもうとっくに過ぎていたんだ。腕があっても駄目で、営業力がなければ、仕事にはつながらないんだ。私は職人だから、この営業なんてことは、一度もやった事は無いし、だいいち腕がなくても、営業力があれば仕事がもらえるなんて、そんなん信じたく無かった。
身体中に電気が・・・。
独立した頃、ある新築中のお宅の庭を作っていた。住宅は、美しい和の家で数寄屋作りだった。そこで、作業をしていた70才になろうかと云う、建て具職人さんの、奥さんが長いため息と共につぶやいた。「はあ??・・・。一生に一度でいいから・・・こんな綺麗な家にすんでみたかった?」瞬間、建て具職人さんの手が止まった。その背中が少し震えているようだった。「うん。そうだな。すまんかったな。」
独立第一号のダンプ

何故か?私の身体中に電気が走ったような衝撃だ。自分の未来を見ているような気がした。家作りで生きている、その本人達の生活は、けして楽なものでは無い事を知っていた。だから恐かった。そして寂しかった。この光景は何故か今でも、私のまぶたに焼き付いてるんだ。そして、寂しそうに、「すまんかったな」っと謝った職人さんの声もまた、心に深く刻まれた。住宅産業に生きるとは?その時、言葉にできない、何か、熱いものを感じた。
住宅会社が造園の仕事を受注する時代だ
時代は、平成不況。この大不景気にはますます仕事が無い。しかし、なぜか住宅会社さんには造園の仕事がたくさんある。ん?不思議だ。ええ〜い、悩んでいてもラチがあかねえ?!この際だ、住宅会社から仕事をもらおう!そこで、運良く偶然知り合った、住宅会社の営業さんから、仕事をもらう事になった。当然だが、この仕事は面白くなかった。だって下請け業者は、元請けの会社の監督の言う通り に進めなくてはならない。当たり前だ。もちろんコストダウンを迫られる。ますます、面白く無い毎日が始った。

住宅会社から、どんどん仕事が来るようになった!
下請けとはいえ仕事がないより、ある方がずっと助かる。こなし切れない程仕事が入って来た。そこで、社員を雇う事にした。すると、不思議なもので、更に仕事は増えて来た。この不景気でも仕事はあるものだ。「俺の実力で、受注できている!」この頃から勘違い生活がはじまる。よ?しこれなら、もっと社員を増やそう!っと職人を更に雇う事になる。面白く無い仕事を加速度的に増やしてしまった。しかし、組織が大きくなっていく事の魅力に勝てなかった。今、思うと、ただ組織が膨張していただけで、中身は無かった。

巨大な勘違い
仕事はある。職人の社員もいる。5人で仕事を廻しても、やりきれない。これは、ちょっと した会社だな。そう、思っていた。よっしゃ、これならいける!俺もここらで、いっちょ賭けてやってみたい。その頃、造園の世界にも、和風から洋風への流れが、少しづつ押し寄せて来ていた。洋風の家に似合う庭木は無いかな?っと探しまくったら、偶然見つかった。その名も、『コニファー』三角帽子のような庭木だ。これは、まさに洋風の庭、洋風の家には、最高に似合うぞ!しかも、生産地は埼玉や千葉。まさに自分の第2の故郷だ。「天の時、地の利、人の和、が揃った状態」っと、いよいよ、巨大な勘違いを起こし、安易に出店してしまった。その時は、その後忍び寄る補修工事地獄の事など、夢にも思わなかった。

恐怖の勘違い
恥を忍んで本当の事を話そう。正直、世の中を甘く見過ぎていた。パット見は順風満帆に見えた我が社だが、その実、工事は施工不良や職人の教育不徹底で、多くのお宅に迷惑をかけてしまった。もちろん、その度に謝りにまわり、施工不良箇所は、補修工事をしまくった。おかげで本工事より補修工事に時間がかかり、当初は1ヵ月で完成予定だったのが、なんと3ヵ月もかかっ てしまった事も。本当に迷惑をおかけしてしまった。計画では、年に3回は職人研修をやる予定になっていた。しかし実際には、まったく開催できず、なんで、こんなに施工不良がおこるのか?何故我が社には、マトモな人材が入社しないのか?毎日文句をいっていた。「なんでうちに来る奴は使えねえのばっかなのかなあ?」ってね。・・・自分自身に大問題がある事に気付かずに。ま、自分に都合が良いようにしか、考えていなかったんだね。今は深く反省している。ただ、その時の経験から、施工不良を無くすことの大切さが身にしみている。だから、今ではスズランエクステリアと系列の新築住宅会社フォレストホームズとの合同、Good施工実践会を開催している。建設業なので、まったくミスはなくなった、っと云う事は無いが、ず〜いぶん少なくなった。
造園業からエクステリア業へ、これまた大変だった。
造園の仕事は、徐々に仕事そのものが減ってきていた。庭を造り木を植えると、管理にお金が かかる。自分で木を切るのは、難しいしめんどうだ。だから、庭仕事そのもの自体が世の中から無くなってきていた。(造園賞は庭造りや、公園や道路の緑化)(エクステリアはフェンスや駐車場、カーポート、門などの外構工事だ。)
私は、迷った。このまま、造園業で生きるべきか?エクステリア業に転身するか?時代はもう、待ってはくれない。驚く程の逆風が造園業界に吹き荒れていた。皮肉な事に、世間では「ガーデニングブーム」と呼ばれていた頃だ。思いきって、エクステリア事業を本格化させた。住宅会社さんからの下請けもあり、幸い、腕の良い左官屋さんの親方とも仲良くなった。この出会いが、我が社の運命を変えていく。この左官屋さんの親方は、仕事は丁寧で、親切にアドバイスしてくれた。困った事があると、すぐに質問の電話をした。嫌な顔を一切しないで、話を聞いてくれた。私の恩人である。もち ろん、お客様から仕事を頂くのは、大変だったが、エクステリアは参入時期から、かなり高デザインの物が作れた。最近当時のお客様宅に、おじゃましても、けして古さを感じない、デザインだ。(自慢話しになってしまったかな?)
同業者の相次ぐ倒産
どうやら、時代の流れも、我々には逆風だった。同業者でロードサイドに展示場や、店を出店している会社が、次々と撤退、倒産していった。「他人の不幸は蜜の味」と良く言われるが、蜜の味どころか、私には明日は我が身かと、同業者の倒産の話を聞くとやはり人事ではなかった。この頃は、正直、「住宅会社を始めたい」などと、言っていられるはずも無かった。この頃が、最も景気が悪いとされていた頃だ。勝ち組に入るか?負け組に入るか?っと世の中では、よく言われていた。幸い、負け組には入らなかったようだっ。いんや?負け組に入らないようにする。これは大変な事だった。ホント

衝撃的な経営研修
ある日、知り合いの社長から、「おまえも、一応経営者のはしくれなら、経営の勉強したらどうだ?」っと研修に誘われた。「そうだよケンちゃん、行っといでよ」っとこの地域で、最も有名な会社の社長にも誘われた。(みなさんご存知のあの、お菓子屋さんのT社さんの社長さんです)私は、正直迷った。そりゃそうだ。研修費だって、そうそう出せない状態だから。しかし、このまま駄目になるくらいなら。っと、思いきって参加する事にした。その、研修では、驚く程自分が見える研修だった。まさに、真っ暗やみの中で、一筋の光明を見つけた、そんな状態だった。その後、研修の甲斐があり、年々会社の経営状態が上向いて、安定経営に入ってきた。安心はできないが、それでも健全経営に数年で入った。苦労した甲斐があった。法人を設立し社名を、鈴蘭苑から有限会社スズランエクステリアに変えたのは、この頃の事だ。

倒産企業の社長は悲惨だが、お客様もまた困っていた
同業者の倒産、撤退が相次いだ為に、その会社で施工されたお客様達は、困っていた。アフターメンテナンスもできないし、相談があっても、相談相手がすでに、いないのだから。私は思った。倒産は地域の為にも、絶対に避けなければならない。会社はすでに、自分個人のものから、社員の、そして地域社会の為に存在する公器のようになってきている。そこで、けして美談ではないが、倒産企業のお客様で、お困りのお宅には精一杯のサポートをしようと決めている。会社を倒すのは、本当に反社会的な事だと、つくづく身にしみた。やはり健全経営でしっかり納税するのは、経営者のはしくれなら、義務であり当然の責務である事を学んだ。この頃になると、下請けを卒業し、自社直お取り引きの、お客様だけになってきていた。有り難すぎる話である。我々の世界では、下請け無しで経営できるなんて、まさに夢のような話なのだ。

フォレスト ホームズ誕生
富士の国NO1の住空間を、優しく美しく創造し続けます。
と、なっている。実は大きなキーワードとして、「住空間」と云う文字がある。『お前の会社は、何業なのか?一言でいってみろ!」っとある方に云われたら、こう答える。

『優美な住空間創造業です!!!」

私たちは、住空間を創造しているのであって、単に、庭に木を植えたり、門のレンガを積んでいるわけではない。優美な住空間の創造。これは、大きな大きなテーマだ。フォレストホームズは、平成19年に設立されたばかりの若い会社だ。私、鈴木は会社の代表にもなっている。相棒の石山と2人で設立した会社で、自然素材住宅をメインとして創っている。石山は、住宅のエキスパートである。住宅の知識や過去の実績は、すばらしいものがある。特に、丸太を活用した樹の家作りでは、この辺りで石山の右に出る者は、まず、いない!なんてったって、丸太活用の本場、カナダ仕込みの技とノウハウだ。このノウハウをこの「富士の国」(静岡県)の為に活かさないのは大罪だ!と本気のホントに私は考えているのだ。一方、私はお客様と話をするのが、大好きだ。到底スーパー営業マンになれないけれど、小さいながらも、スズランエクステリアと云う法人を抱え、組織として仕事をしていた。石山は樹の家のエキスパートだ。このカナダ仕込みの貴重なノウハウを、この「富士の国」の為に生かさないのは、まさに罪だ!っと気が付いた。だから、熱〜く2人は語った。絶対にこのすばらしい「夢の樹の家」を「富士の国」に普及しよう。その為にはまずは我らが故郷「中東遠だ!」 こうして、2人は「夢の樹の家」を創造する会社、株式会社フォレスト ホームズを設立する ことになる。まず、初めに取りかかった仕事は、『経営理念』創りである。なんの為に私たち が、このフォレスト ホームズを経営していくのか?なんの為にこのフォレスト ホームズが存在するのか?2人はまた熱く語りあった。毎晩、議論は深夜に及び侃々諤々の討論を重ねた。最大の問題点は、スズランエクステリアと云うガーデン&エクステリア会社との、あらゆる面での擦り合わせだ。こんな時に一番重要なのは、経営理念に戻り、慎重に考えると云う事。会社の一番根底にある物事の考えかたが、経営理念であるので、そこに戻って考えた。私はすでに、数多くの研修を受講してきたが、更に日本創造教育研究所と云う、日本の「中小企業の活性化」を使命とする研修会社の、経営理念塾上級コースに参加する。やはり、やるなら本格的にきちんと、学ばなければいけない。この富士の国の為にも、私たちの「夢の樹の家」のお客様になってくれる、みなさまの為にも・・・。

フォレストホームズ経営理念
私たちは、樹の家創りを通して、富士の国NO1の住空間を、優しく美しく創造し続けます。

『社名のゆらい』
フォレスト:深い森を意味し、
ホームズ:暖かい家々をこの「富士の国」に数多く建て続けます。フォレストホームズは樹の優しさを追求した、新感覚の『夢の樹の家』を創造し続けます。


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